こうやってミニマリスト的な生き方をしていると、モノや生き方の執着がどんどんそぎ落とされていくのを感じます。
あれもいらない、これもいらない。そうやって得た余白で好きなことを楽しんでいます。
そこからさらに、お坊さんになろうと思って私も丸坊主にしているわけではないのですが、最終的に行きつく先は、そちらなのでしょうか。
こちら偶然手に取った一冊です。
著者
著者の小池龍之介さんは、1978年生まれ、山口県出身、東京大学卒のお寺の住職をされています。
住職のお仕事のかたわら、一般向け座禅指導や執筆活動もされているということです。
他にもたくさん著書があるのですが、こちらの『こだわらない練習 「それ、どうでもいい」という過ごしかた』(小学館)は著者が30代半ばに出版されました。
全編にわたる落ち着いた語りは、さすが仏道に身を置く方、味わい深いものがあります。
加えて東大のご出身ということもあってか、とても知的でリズミカルな文体は読みやすいし心地よいです。
あらゆる「こだわらない」
こちら、「はじめに」より引用します。
こだわれば、肩に力が入り、緊張する。
こだわらなければ、無駄な力が抜けて、自然体の自分に戻る。
こだわれば、そのこだわりに合わない「人」も「物」も「現象」も、すべてが“敵”になる。敵に出会うたびに、ストレスが生じる。
こだわらなければ、世界から“敵”がいなくなる。心が、まろやかに安らいでいる。
こだわれば、執着に縛られて好みも思考もパターン化し、新しい可能性を閉ざす。
こだわらなければ、縛られずにいる軽やかな自由とともに、新たな変化に向けて心を開いていられる。
『こだわらない練習 「それ、どうでもいい」という過ごしかた』小池龍之介 はじめに より
そして目次に並ぶ、あらゆる「こだわらない」。
- 友の有無にこだわらない
- 嬉しかったことにこだわらない
- 若さにこだわらない
- ありがとうにこだわらない
- 住む場所にこだわらない
- 他人の期待にこだわらない
- 所属にこだわらない
- 平等にこだわらない
- ルールにこだわらない
- 食事にこだわらない
- 葬儀にこだわらない
- 宗教にこだわらない
- 「快」「不快にこだわらない」
- アイデンティティにこだわらない
- スピリチュアルにこだわらない
- 性の幻想にこだわらない
- 自我を消すことにこだわらない
- 「~すべき」にこだわらない
これだけ揃うと、ある意味爽快・痛快ですね。
では、すべての執着を捨て、いったい手元に何が残るのだと笑。
穿った見方をせず読みすすめると、どのお話も丁寧に解説されていて肚落ちします。
特に興味深いのは「宗教にこだわらない」「性の幻想にこだわらない」のくだりでです。
「執着を手放す」ことを説くはずの仏教ですら、油断するとあっさりと自説を主張し、他を排斥することに執着する性質を持っている。
『こだわらない練習 「それ、どうでもいい」という過ごしかた』小池龍之介 第2章より
宗教を説く身として、このように自覚している方は意外と少ないのかもしれません。
また、このような書籍で性の話に触れることすらなんとなくためらわれるのですが、なんとも込み入った具体的なワード満載で面白いです。
そういったところも含めて、表現にもこだわらず赤裸々に自信の考えを述べられているのが、多くの人の共感を生むのでしょう。
こだわらないミニマリスト
生きていると、「~すべきだ」「~しなきゃいけない」と感じることはあります。
その気持ちを一歩踏み込んで考えてみます。
自分にとって「絶対〇〇しなくちゃいけない」と信じこまれているものを、よくよく分析してみる。すると、立派な責任感に思えていたもの、それゆえ抵抗の余地もなかったものが、元をただせば単に、他者から否定されることへの恐れにすぎないと理解できます。
『こだわらない練習 「それ、どうでもいい」という過ごしかた』小池龍之介 第3章より
結局は他者からどう思われているか?に執着しているということ。
これこそ、あらゆるこだわりに共通することなのかもしれません。
であれば、今一度「本当に自分がどうしたいか?」「どうありたいか?」、胸に手を当てて問い直してみましょう。
日常生活の中で、実は自分の思っている以上にこだわらなくてもよいことが、誰しもあるはずです。
「別にもう髪の毛にこだわるのはいっか」と丸坊主にした私を手本としてください、とは言うつもりはありません。
ただ感じるのは、自分にとって不要なモノを手放したぶん手に入れた自由を謳歌しているミニマリストとして、さらにあらゆる執着をなくしていくこと。これが私の生きる道なんだと。
道に迷ったら一度この本を手に取り、ゆっくり読んでみたら良いと思います。