「40歳になったら、何か世界が変わるのか?」
なんて思っていましたが、いざその年になると、実際はなんてことない、それまで通りの景色でした。
年齢を重ねれば、自動的にオトナの仲間入り、なんてこともなく。
勝手な期待外れが、41歳になった今の今まで続いていました。
結局私は30代の私と変わらず、楽しいことは楽しいと感じ、悲しいことは悲しいと感じる。
ちょっとしたことで感動して、世の中、自分の知っていることなどほとんど何もない、とすら思えたり。
この「40」という数字が自分ごととなると、ついつい「論語」の中で最も有名な言葉のひとつ、「四十にして惑(まど)わず」「不惑」に反応しがちでした。
「なるほど、40歳になったら、なにごとにも迷わないようになるのか~」
などとこれまで漠然と思っていたからこそ、いざその年齢になると、自分と世間的な40代とのギャップに落ち込んでしまったりします。
「全然惑うこと、あるやん。。。」と。
ところが、この孔子が言ったとされる言葉、こんな解釈もあるようです。
参考文献はこちら。
「すごい論語」安田 登
「論語」は孔子の言動をのちに弟子たちがまとめたもので、書物として完成したのは、孔子の死後400年が経っていた頃だそうです。
著者によると「不惑」の「惑」という文字が、そもそも孔子の時代にはなかったといいます。
つまり、「不惑」という表現を、少なくとも孔子自身は使っていなかった、ということ。
そしてさかのぼって、孔子が生きていた頃に使われていた文字の中で該当しそうなものが、「或」でした。
これは、「地域」の「域」や「國」に見られるつくりで、ともに「区切られた区域」を表すそうです。
つまり、「或」は、境界線を引いてある場所を区切ること(分けること、限定すること)、という意味になり、結果、「不惑」→「不或」は、「自分を限定してはいけない」という解釈になるのだといいます。
私たち40代。長く生きていれば、「自分はこんな人間だから、こんな性格だから、こんな年齢だから」、ついついそんな半ばあきらめのような気持ちになりがちです。
自分自身を何かの基準で区切ることで、割り切ろうとする気持ち、誰しも心当たりがあると思います。
そこを孔子は、「不或」という言葉で、「40歳だからこそ、自分を限定せず、可能性を広げなさい」と説いてくれるというわけです。
なるほど、まったくちがう切り口の「不惑」、あらため「不或」。
こう比べると、「不或」のほうがより主体的で前向きな意味合いではないでしょうか?
であれば、私は「不或」でありたい。
何かを言い訳にしてできないと、自分を決めつけてそこで終わるには、40代、まだまだ人生早すぎます。
この身体が動くうちに、気持ちが前を向いているうちに、挑戦したいことばかり。
少しでも「やりたい」と思ったことは先延ばしせず、手を付けていこう。
自分の可能性を広げていこう。
今回もこちらの本一冊で、またひとつ学べたうえ、前向きな気持ちになれました。
これも、自分が読まないだろうと思った本を何気なく手にとってみた結果。
私、グッジョブ(笑)
これからも、自分の周りに線を引かない「不或」で、生きていこう。
楽しもう、40代。
おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫
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