振り返ってみるとどうでもいいことに、なぜあのときはこだわっていたのだろう。あんなことにこだわっていなければ、あの時にあれを捨てられてされすれば、同じことを感じる人は少なくないだろう。
為末大「走りながら考える」より
あの為末大さんと同じように、私も以前は「賢い自分でいたい」と思っていた時期がありました。いや、それは思春期からわりとつい最近までそうだったように思います。
周りから賢く見えるようにふるまったり、大きく外して失敗するようなことは意識的に避けていたり、振り返れば思い当たるフシがたくさんあります。同じことを感じていた為末さんは、それを「たくさんの『学びの機会』を失ってしまった」と言います。
どうでもいいことに、人はなぜこだわるのか。
それは不安だからだ。
特に、プライドが高い人は、どうでもいいことにこだわる傾向にある。
素のままの自分に自信が持てないから、「私はこういうものです」と自分にも周囲にも言って聞かせないと安心できない。そうだというよりも、「そうでなければならない」という思い込み。
為末大「走りながら考える」より
「自分はこうだからアレをしない、そう思うこと多くない?」自分に問いかけます。「ほんのわずかな見栄やプライドが足かせになって、アレをしないために、チャンスを逃していない?」私もそんな人生でした。
成長の鍵は、自分が大事だと思い込んでいる「どうでもいいこと」を、どれだけ少なくできるかにある。
為末大「走りながら考える」より
身の回りのモノを減らしきった今、次に取り組むべきはこれだな、と思うのです。「ランナーだから」「ミニマリストだから」、自分をこの場に留めておくその思いを超えて、一歩踏み出してみたら、また違う世界が見えるかも?
人は時に、目的を達成することよりも、自分のこだわりを優先する。
年下に頭を下げられない、弱さを見せられない、必死になれない、昔の栄光を捨てられない、人に馬鹿にされたくない。(中略) 本当に大事なことを突き詰めるには、こんなふうでいたい、こんなふうに見られていたいという欲望との決別が必要になる。
為末大「走りながら考える」より
「自分のやりたいことの目的とは?」「それを達成するために、手に握りしめているモノは、そんなに大切なモノなのか?」自問自答するうちに、それはただの思い込みであって、すぐにでも手放せるモノであることに気づきます。
素直に年下に頭を下げよう、弱さを見せよう、必死になろう、昔の栄光なんて置いてこよう、人に馬鹿にされること、それも上等。ぱっと裏をひっくり返してみると、意外となんてことないような気がします。
私ももはや「賢い自分でありたい」なんてつまらない気持ちはぽいっと投げ捨てて、素のまま・ありのままの自分を受け入れつつ、「なりふり構わない自分」として生きていきたいと思うのです。
【参考図書】為末大「走りながら考える」
おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫