ご縁があり手に入れた本の中に、一枚の新聞記事の写しが挟まっていました。
「さくら道 太平洋と日本海を桜で結ぼう」(中村儀朋 編著)
開くと、昭和51年11月27日の中日新聞に投稿された、国鉄バスの車掌・佐藤良二さんの手記でした。
僭越ながら全文を文字に起こしてご紹介させていただきます。
サクラよ生きよ 佐藤良二
ことしも新聞に雪の便りが出るようになると、わたしの胸は痛む思いでいっぱいになるのです。奥美濃の山々、飛騨白川郷越中五箇山、城端から、現在は輪島の町まで太平洋側から日本海へ植えられつつあるサクラの苗木が、雪の重みで折れはしないだろうか、心配で心配で病床の夜をまんじりともしない私です。豪雪のこの季節を無事にのり切れるよう、添え木のないサクラの苗木をみた人は、コモやムシロで暖かく包んでいただきたい、と願わずにはおれないのです。
名古屋ー金沢二百六十六キロの国鉄バスの区間を三十万本のサクラのトンネルにしよう。人に笑われようが全生命を打ち込んでこの夢を実現しようー と決意してすでに十年がたちました。そして全国の人々の協力で沿道に植えられた苗木は二十万本になったのです。
しかし、恥ずかしいかな、わたしはついに病院のベットに横たわってしまいました。リンパせん肥大が内臓器官まで及んできたのです。幽霊のようにやせ細ってしまったわたしのからだに、親切な医師と看護婦さんは連日、点滴。ご飯が食べられるようにと、わたしの背中を交代でさすってくださるのです。
真っ白い病室の壁にかかっているサクラの写真をうつろな目で見ていると、自然に「まだ死んではならない。必ず、この念願を果たすまでは生き抜くぞ」と底力がわいてくるのです。
わたしのこんごの命は神仏に任せる以外にないでしょう。サクラの苗木たちよ、どうか一人でも温かい人々の各抱をいただいて無事に春を迎えてほしいー と祈らずにはおれません。たとえわたしはこの世を去っても、みなさんのサクラへの愛情が結集する結果、三十万本のサクラのトンネルは必ず実現するのです。
(名古屋市中村区牧野町一ノ二十五 名古屋鉄道病院南病棟二二八号室
太平洋と日本海をサクラでつなぐ会 四七才)
昭和五十一年十一月二十七日 中日新聞より
この短い手記を読み終えると、目の前に真っ白な病室と鮮やかな桃色のサクラが広がるような感覚を覚えました。
毎年四月に開催される、名古屋から金沢までの250kmを走破するウルトラマラソン「さくら道国際ネイチャーラン」は、47歳の若さで亡くなった佐藤良二さんの遺志を継ぐ企画として始まりました。
コロナ禍の中、2020年以降大会の中止を余儀なくされていましたが、来年こそ無事に開催されることを願ってやみません。
私も再びエントリーするつもりですが、もしランナーとして選ばれなかったにせよ、ボランティアとしてでも「さくら道」に必ず参加したいと思います。
佐藤さんの残したこの大会にわずかでも力添えしたい、と思うのです。ここ数年変わらない気持ちです。
季節は秋。ここからやがてまた厳しい冬が訪れ、暖かな春が巡ってきます。
次の春こそ、大会にかかわるランナーさん・ボランティアのみなさんが、皆笑顔でその日を迎えられますように。。
私も清貧な毎日を、こつこつ積み重ねていきます。
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