大量のモノや情報が溢れる現代。
わたしたちミニマリストが選ぶ「捨てる生きかた」に対して、逆に「捨てない生きかた」を選ぶ人もいます。
五木寛之先生の「捨てない生きかた」を拝読しました。
愛着ある「ガラクタ」は人生の宝物である。
五木先生の著「捨てない生きかた」、新書の装丁には「愛着ある「ガラクタ」は人生の宝物である。」とあります。
本作ではタイトル通り、先生の「捨てない生きかた」に対する考えが綴られています。
戦後のモノ不足の中で生き抜いてきた先生にとって、身の回りのモノはとても重要。
それらを捨てない気持ち、生きかたには、ちゃんと理由があるんだよ、とやさしく教えてくれます。
「捨てない生きかた」も悪くないー。手に入れるのに苦労したとしても、たやすく手に入ったとしても、いまそこにあるモノには、手に入れたときの感情と風景、そして年数、数十年とともに時を過ごしてきた〈記憶〉が宿っています。
「捨てない生きかた」五木寛之 まえがき
ここで言うモノから溢れる記憶が重要で、それを拠り所にしていこうというお話です。
モノは「記憶」を呼び覚ます装置である
例えば靴ひとつがあり、それを手に入れた記憶をたどります。
五木先生にとっては靴はファッション以上の意味を持っていて、戦後の記憶を鮮やかに甦らせるものと言います。
モノには、「モノ」そのものと同時に、そこから導き出されてくるところの「記憶」というものがあります。モノは記憶を呼び覚ます装置です。ぼくはこれを「依代」と呼んでいます。「憑代」とも書きます。
「捨てない生きかた」五木寛之 第一章
「依代」「憑代」、いずれも「よりしろ」と読みます。
コロナ後の世界、わたしたちの日常は、完全には元には戻りません。
人と人との繋がりが薄くなっている時代、人は孤独を抱えて生きていくことになります。
そんな中でわたしたちが「友」とするもの、それが自分自身の「記憶」だとあります。
そして、それを蘇らせてくれる依代になるものが、一見どうでもいい身の周りのモノたち。先生はあえて「ガラクタ」と呼びます。
作中で挟まれている「ぼくのガラクタたち」のコーナーで紹介されているモノたちが、いちいちかわいいくてほっこりします(笑)
人生百年時代は「ガラクタ」とともに生きる
近頃では「人生百年時代」というキャッチコピーが一人歩きしている感があります。
なんとなく途方もないイメージで、広大なスケールの人生。
その道の途中、もう折り返そうかというところを、果たしてわたしたちはどんな心持ちで過ごしたら良いのか。
五木先生は人生百年時代の生きかたを「登山」として考えます。
60歳くらいまで、ひたすら山を登るように生きつつ、それ以降、人生を「下山」します。
頂上の世界を眺めたら、今度は麓を目指して下りていく、ということです。
超高齢化社会となりつつある現代、これからはこの「下山」にこそ、人生の本質があるといいます。
そしてその下山の時期に心の依代となるのが、モノから溢れる「記憶」です。
身の回りにある、ありとあらゆるガラクタたちから呼び起こされる記憶が、人生を味わい深いものにする、ということです。
「捨てない生きかた」は、本質的に孤独に寄り添う生きかたなのかもしれません。
捨てる生きかた・捨てない生きかた
作中でも、必要のないモノを減らすミニマリスト的な生きかたについて、言及があります。
「それはそれで潔い生きかた」としつつ、「そういう暮らしぶりというのは、ときにとても空虚な感じがするのではないか。」と疑問を投げかけています。
わたし個人としては、いまの自分にとって不要なモノは手放し、本当に必要なモノ、心ときめくモノに囲まれた今の暮らしは、決して虚しくもなく、心穏やかに過ごせているので、すこぶる快適だと思っています。
しかし、これから子どもが成長し、巣立って妻と2人になり、人生のステージが変わると、もしかすると何かの拍子で独りになるかもしれません。
そんなとき、孤独と付き合うためにモノを必要とするのか、モノを捨てなければよかっと思うのか、どんな気持ちになるのか、実は密かに興味があります。
もちろん、「捨てる生きかた」「捨てない生きかた」、どちらが正解という単純なものではありません。
すべては個人の自由ですし、「捨てない生きかた」で他人様の迷惑にならなければ、何も問題ありません。
わたしは、今はミニマリスト的な生きかたで満足していますが、ここから数十年経って、やはり「捨てない生きかた」が良い、と真逆に舵を切るかもしれません。
それもまた人生なのです。
手本と見本の違い
五木先生は「捨てない生きかた」をやさしく説いてくれますが、けっして強い言葉でアドバイスをしません。
理由として挙げているのが、「手本と見本の違い」です。
明治時代の金沢に、高光大船(たかみつだいせん)という僧侶がいたそうです。
高光は明治の宗門改革の大立者で、講演をしてほしいと引く手あまたでした。
断ることもしょっちゅうだったそうですが、ある時このように言ってやむなく引き受けました。
「わしは人の手本にはなれんが、見本くらいにはなれるだろうから、引き受けましょう」
「捨てない生きかた」五木寛之 第二章
この手本と見本のちがいのくだりが面白いです。
「あなたの参考になるかどうかはわかりませんが、ぼくのことを話ましょう」ということです。
五木先生も強く「捨てない生きかた」を推しているわけではなく、あくまでそんな生きかたもあるのだよ、とやさしく語りかけてくれます。
わたしも自分の「捨てる生きかた」、ミニマリズムを他人に押し付けないよう、もし興味がある方に対しては、ただの「見本」に徹したい、と思ったのでした。
この考えが、誰かの見本になれば幸いです。