【ちょっとした感想文】じぶんの「分人(ぶんじん)」

本当は均一でいたいのに…

わりとつい最近、40歳前後からでしょうか。意識的に「裏表のない人間でありたい」と思って過ごしているワタシ。

家族に対しても、友人に対しても、職場の同僚に対しても、できる限り同じ態度で接するよう心掛けています。もちろん家族にはいちばんラフですが、職場では年下にも敬語を使い、もちろん目上の方にも敬語を使う。

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これには誰かによって態度を変えるのが面倒くさい、という単純な理由もあります。けれど現実には、やはり家族の前と友人の前、同僚の前の私は少しずつ違っていて、「本当は均一でいたいのに…」という違和感がずっとありました。

そんなもやもやを解きほぐしてくれたのが、平野啓一郎氏の著書『私とは何か』に出てくる「分人(ぶんじん)」という考え方でした。

「分人」とは何か?

分人とは何か? この新しい、個人よりも一回り小さな単位を導入するだけで、世界の見え方は一変する。むしろ問題は、個人という大雑把さが、現代の私たちの生活には、最早対応しきれなくなっていることである。

平野啓一郎「私とは何か」

「分人」とは、簡単にいうと人間は「一人の自分」ではなく、関わる相手や状況ごとに違う自分を生きている、という考え方です。

  • 友達といるときの自分
  • 家族といるときの自分
  • 職場の上司といるときの自分
  • 一人で過ごすときの自分

これらはすべて本物の自分であり、どれかが仮面でどれかが本当、という区別はない。むしろすべてが等しく「自分」であると。

特徴としては、①相手との関係によって生まれる、②場面に応じて自然に切り替わる、③どれも正真正銘の自分、という点が挙げられます。

たとえば「優しい自分」は、優しさを引き出してくれる相手がいるからこそ現れる。そう思うと、人間関係の中で自然に生まれる自分を肯定できるような気がします。

心を軽くする「分人」の考え方

この考え方が救いになるのは、元来ある「自分は一つであるべき」という思い込みから解放されることではないでしょうか。

たとえばある人との関係でうまくいかなくても、それはその関係に属する「分人」がうまくいっていないだけ。他の分人が元気であれば、自分全体が否定されたわけではないと気づけます。結果として、人間関係のしんどさが和らぎ、自己肯定感も保ちやすくなるという。

ワタシの勝手なイメージ。「分人」と聞くと小さな自分が心の中に住んでいるようで、なんだか愛おしい気持ちになります。

ワタシの中に、小さな分人たちがワラワラと顔を出す。そのどれも大切な自分の一部なんだから、「なーんだ、これでいいやん」と思える。

そんなふうに考えられると、心はふっと軽くなるのでした。

おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫

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