ゴシップ・スキャンダルに引き込まれる瞬間
先日、何気なく立ち寄った公共の場で、ふと目に入ったお昼のワイドショー。その瞬間、私の胸がざわざわ、そわそわと落ち着かなくなりました。
芸能人の誰が誰とどうした、ああした――そんな内容を、まるでどこかで見たような既視感とともに画面が流れ続けます。
「そういえばテレビ見ないから、この人の名前すら知らなかったな」と思いつつも、映像やナレーションに目が引き寄せられていく。
街の声、コメンテーターの辛口コメント、そして結論の出ないまま次のコーナーへ――この流れ、どこかで何度も見たはず。そう、まさに報道の“テンプレート”です。
きっとテレビ業界で長年培われてきた「視聴者を引き込む型」があって、それが今も使いまわされて、延々と繰り返されているのだと思います。
テンポの良いナレーション、煽るようなテロップ、一瞬でも気を抜けば、私たちはそのテンプレに呑み込まれてしまう。うまくできているなと思います。
見てしまった代償は「時間」
しばらくぼんやりと見ていたテレビに、「いかんいかん」と思い直して、その場を離れました。そしてふと思ったのです。「そういえば、これまでの人生で“あのゴシップを見逃して損した!”なんて一度も思ったことがない」と。
それくらい、私たちの日常に無関係なゴシップ・スキャンダルが世の中にあふれています。なのに、テレビもネットも「ねえ見て、気になるでしょ?」と誘惑してきます。でも、いくら見たところで自分の生活は1ミリも変わらない。
ただただ、手持ちの時間がとろとろと溶けていくだけ。お金は努力で取り戻せても、時間は二度と戻りません。
それに気づいてから、私は意識的に“目にするもの”を選ぶようになりました。何を見るか、何を見ないか。日々の情報との接し方は、自分のメンタルにも直結するのです。
ゴシップを知らない人生、それで本当に困る?
「誰それが〇〇だったらしいよ」――そんなリアルの会話にも、正直あまり興味が持てません。というより、その話をしている・聞いている“時間”がどうしても気になってしまうのです。「その時間があれば、おたがい、他のことできるよね」と。
もちろん、誰かの噂話に乗らないことが失礼に感じる場面もあるかもしれません。でも、それ以上に私は「その話を知らないことで損をすることなんて、本当にある?」と考えてしまうので、きっと話者にとっては話がいのない人間なのでしょう。
わたしの頭の中
《そんなことより外を走りたいし、楽器触りたいし、本読みたいし、家族といっしょに過ごしたい。》
おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫