先日、ひょんなことから、両親のもとで一泊する機会がありました。
自宅から最低限のお泊りセットを持参して泊まらせていただいた時の話。
最後に両親と一緒に過ごしたのは、たしか10年前くらいまで。独身の私と両親と3人でアパート暮らしをしていたところ、私が付き合っていた彼女(今の妻)と同棲を始めたことを期に、3人暮らしから離脱したのでした。
そして久しぶりに両親と3人で過ごす夜。周りを見渡すと、我が家にはないものがずらり。(※写真は自粛)
床にダンボールが積み上げられていたり、棚にお菓子が並んでいたり、私たちが子どもの頃に作った図工の作品が残っていたり。おそらく一般的な親世代の、モノが所狭しと隙間を埋めて、全体的に空間・余白が少ない光景が広がります。
いや、昔、家族全員で住んでいた家はもっともっとモノが溢れていて、人が自由に使えるスペースは皆無に等しかったっけ。今の自宅のように、リビングにヨガマットを敷いてストレッチする、なんて絶対に無理だったっけ。
だけど、なんなんだろう、この安心感…。両親のモノだから言ってしまいますが、この雑然とごちゃっとしたかんじが、妙に落ち着くんです。
たしかに、モノが少ない今の自宅はすっきりして居心地が良い。それは胸に手を当てて問うても間違いない感覚。ですが、モノに溢れる実家(※賃貸ですがあえて両親のいる場所を実家と思っています)もまた、心地よい。
いったい、どうして?
以下、ChatGPTに手伝ってもらい加筆修正しながら自分の気持ちを分析しました。
- 慣れと愛着
実家は幼少期から慣れ親しんだ空間であり、物が多い状態が「心地よい」という感覚と結びついているかもしれません。無意識に、モノの多さや雑然とした感じが「家族の温かみ」や「思い出」と関連づけられているため、自然と心地よく感じられるのです。 - 場所ごとの役割の違い
自宅と実家では、求めるものが異なるのかもしれません。自宅では「整理された空間」でリラックスし、効率よく生活したいと考えている一方、実家では「懐かしい思い出や家族の雰囲気」に心地よさを感じている可能性があります。それぞれの場所に合った役割があるため、片付けやすっきりした空間がなくとも実家で心地よく感じるのでしょう。 - ミニマリズムの中での“例外”としての快適さ
普段はミニマリストとしてシンプルな生活を大切にしている分、実家のモノに囲まれた空間が「特別な例外」として新鮮さや安心感を与えているのかもしれません。普段と違う環境が、一時的にリラックスする要素として作用していると考えられます。
たしかに。上の3点はまさにその通りだと感じました。
部屋のモノの多さは自然と、きょうだい5人と両親で過ごした少年期を思い出させてくれますし、貧乏ながら楽しかった記憶がよみがえってきます。
また、自宅と実家とで求めることが異なるというのも、きっとそうなんでしょう。自宅は自宅、実家は実家、まったく異なる生活空間に同じ快適さを求めているわけではありません。
「ミニマリズムの中での“例外”としての快適さ」という表現もしっくりきました。あくまでひとときの例外として雑然とした空間に身を置くぶんには良いのでしょうが、それが毎日だと…きっとね。(※両親ごめんね)
なるほど、自宅と実家、両者の居心地良さについて矛盾した気持ち。その理由がすこしわかったような気がします。
いや、これでほぼ正解だと思うから、やっぱりすごいなAI。人の心の整理も手伝ってくれて、もやもやをときほぐしてくれる作用・効能があるって、これは使わない手はないですね。
そうしてこの日、母に手料理を振る舞ってもらい、父と3人で食べました。そうそう、実家ではバラエティー番組を見ながらみんなでご飯食べていたっけ。自宅ではほぼ民放を見ないので、これも新鮮だなぁ。
料理の味付けも量も、昔から変わらないところにまたじんわりときて、おなかいっぱいになったら、用意された布団で泥のように眠ったのでした。
おしまい≡⊂( ^-^)⊃♪
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