【雑記】ひらがなにたいする、どうでもよいきもち

どうでも良い私の気持ちを聞いてください

これは正真正銘、ただの雑記。たいした話ではないけれど、ちょっと聞いてもらえたらうれしいです。

私、ひらがなに対して少しだけ複雑な気持ちを抱いているんです。
広告やコピーでひらがなが多用されているのを見ると、なんとなく「あざといな」と思ってしまう自分がいます。

まるで「やさしい言葉でしょ?親しみやすいでしょ?」というマーケティングの計算が透けて見えるような気がして、少しだけ気持ちが冷めてしまう。

たとえば「ありがとう」よりも「有難う」と書かれたほうが、逆に誠実さを感じることもあって。

もちろん状況によりますが、過剰にひらがなが並ぶと、どこか「つくられた優しさ」を感じてしまうのです。

やさしさに、心がほどけてしまう

でもそんな目線で見ているくせに、気がつけば、ひらがなのやさしさに救われている自分もいるんです。

角のない丸いフォルム、言葉のなかに漂うおだやかさ。ひらがなには、漢字やアルファベットにはない“やわらかさ”や“ぬくもり”があります。

子どももお年寄りも、日本語を勉強している外国の人たちも。どんな世代、どんな人でも受け入れてくれるような、懐の深さがひらがなにはある。

どこかフェミニンで、控えめで、包み込んでくれるような雰囲気。気を張っているときほど、ひらがなに出会うとほっとしてしまう。

そんな自分の反応が、ちょっと悔しいけれど確かにあるんです。

好きだけど、あざとい。あざといけど、好き。

わかっているんです。私自身も気づけばひらがなを使っているということを。

言葉をやわらげたいとき、ちょっと気持ちを伝えたいとき、あるいは何かをぼかしたいとき。そんなとき自然とひらがなが出てくる。

それってもう、「好き」ってことなんだろうなと思うのですが、素直に「好き」と言ってしまうのは悔しい。だって、やっぱりあざといんです。狙ってる感もあるんです。

けれど、それでも癒されてしまうのだから、もう降参するしかないのかもしれません。

好きなのにちょっと悔しい。あざといのにほっとする。
そんな相反する気持ちのあいだを、私は今日もゆらゆらとゆれているのです。

私も、一人称の「私」を「わたし」にしようかなぁ。

おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫

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