記者会見の一場面に感じた違和感
何気なく目にした記者会見の映像。公共の場に設置されたモニターに映っていたのは、スーツ姿の男性が大勢の記者に囲まれて弁明している様子でした。
話の発端も、問題の内容もわからないまま、ただひたすらに「説明をしてください」と声が重なり、カメラの前の男性は終始困惑した表情のまま。
その場では「プライバシーに配慮してお答えできません」と述べていたのですが、記者たちは言葉の隙間に入り込み、粘り強く問いを重ねます。
その問答を画面越しに見ている視聴者からも、SNSなどで「おかしい」「逃げてる」などの言葉が飛び交っているようでした。
そして画面には、次第に「一人の男性」対「それ以外すべて」の構図ができあがっていき、人間が巨大な力でじわじわと押し潰されていくような感覚に、私も引き込まれていました。
擁護でも否定でもなく、ただの違和感
私自身、その男性を擁護したいわけではありません。記者も男性も、それぞれが職務を全うしようとしていることはわかっています。
男性は責任者としてその場に立たなければならない。記者たちは視聴者の関心に応えるべく、一つでも多くの情報を得ようとする。それぞれの立場に「正当性」はあるのです。
ですが、それでもなお、あの光景に違和感を覚えずにはいられませんでした。
1対数万、数百万、あるいは数千万。逃げ場のない状況の中で、まるで“正義”という名の大義で、個人を一方的にねじ伏せる構図。私の中に「やり過ぎでは?」という感情が拭えませんでした。
これは今始まったことではない、たびたび感じるメディアの違和感。この時も背筋がひやりとしました。
正義とは誰のものか?
記者会見の男性も、きっと極度の緊張の中でそこに立っていたのでしょう。帰宅すれば家族がいて、どうだったのか、心配しているはず。今晩の食事ものどを通らないのではないか——そんな想像がふとよぎりました。
情報が求められる社会において、説明責任は必要不可欠なものです。けれども、正義の名のもとに加熱する集団の圧力は、時に別の暴力に変わる。
私は、その流れにどうしてものりきれず、少し距離を置いて眺めてしまう。だからいつも集団の中にいられないのかもしれません。
人がやんや言う流れにのって、自分も誰かをたたいてしまう。そんな自分のことを、本当に自分は認められるのでしょうか。そんな時、深呼吸をしていったん意識を身体の外にもっていって、見てみたら良いと思います。
きっと、なりたい自分の姿とはちがう、気持ち悪い顔をしているはず。うん、きっと。
おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫