こんにちは、たてちんです。
冬の晴れ間。
雪国では非常にありがたい一日でした。
ただ晴れているだけで幸せ。
久々にそんな気分を味わいました。
今日はふと昔のことを思い出したのでお話したいと思います。
朝活・資格の勉強
2:30~ 朝活開始。
英検1級は次回、今年の5月に受験を予定しています。
今まで勉強しているつもりで、実はいい加減で適当な取り組みしかしていなかったので、次が最後と思って臨みます。
いい加減な自分は2021年にぽいしてきました。
毎日まっさらな気持ちで英語と向き合います。
あ、簿記ももうすぐ試験です。
まだ細かいところが詰められていないので、昼休憩の時間も駆使し勉強します。
朝活・通勤ラン
通勤ラン4km。
雪がないと、こんなにも走りやすいのか。
ふだん何気なく走れていることに感謝しかありません。
地面の感触を楽しみます。
一日一捨 (6/365)
6 : たまごのシェイカー
たまにシャカシャカ振ってました。
質感と音はお気に入りですが、さよならします。
ありがとうございました。
みんなここから羽ばたいた
仕事で隣町に行く用事がありました。
そこは私の出身の町で、遠くはないのですが、わざわざ行く機会も最近はありませんでした。
用事のついで、久々に住んでいた家の前を通ってみました。
はい、ただの駐車場です。
ここにはかつて、築40年以上、いや、もっと?の超が何個つくのか、ものすごく古い平屋のあばら家があったのです。
貸家だったのですが、それが私の家、でした。
私には両親と他4人のきょうだい(弟×2、妹×2)、あわせて7人家族でした。
「でした」、って誰か死んだわけではなく、子どもたちが成人して、それぞれ巣立っていった、ということです。
ぼろ屋は、私が中学生で14歳の時に引っ越してきました。
きょうだいが多く、私の父は普通の会社員、母は専業主婦だったので、当然貧乏ながら貧乏でした。
事情があり、もともと住んでいた持ち家を離れることになりましたが、生活圏が変わらないよう、わりと近所の超ぼろい貸家に越してきたのです。
その貸家に住むことが決まった当時、思春期真っただ中だった私はもう、
「あぁ、、、まじか、、、(絶望)」
でした。
私としては、思春期でぼろい家に住んでいるということがコンプレックスで、友達を自宅に招くことはおろか、みんなにその場所を知られないようにしていたのを覚えています。
家に入る時も、周りに見られないようにきょろきょろしていました。
建物といえば、その当時でもうすでに限界を迎えていました。
雨漏りはするわ、浴室の扉は木製で腐食して取れて、浴室の扉がなくなるわ、ネズミやGが出るわ。。。
また、冬場は家全体に冷気が通り抜けて死ぬほど寒かったです。
特に奥まった部屋のことを家族間では「極寒の地」と呼んでいるほどでした。
そんな劣悪な環境の中、きょうだいが多いことと両親がモノに無頓着という家庭だったので、とにかく家の中がモノで溢れていました。
父は性格がお人よしすぎるので、人が要らないといったものをなんでも自宅に持ち帰ってきました。
狭い我が家なのに、多いときは3台ブラウン管テレビがありました。
しかもポンコツですぐ壊れるので邪魔になる。
母もなかなか捨てられない人だったので、子どもたちのモノをいつまでも大切に残していました。
次第にモノが溢れて溢れて収拾がつかなくなり、狭い家がますます狭くなる。
積み上げたモノの重みで床がへこんで落ちそうにもなりました。
ただ、そんな中でも、家族全員でぎゅうぎゅうおしくらまんじゅう状態、わいわい楽しく過ごしていたのは、やっぱり血を分けた両親ときょうだい。
みんなでいっしょに食事するのが好きでした。
長い間、ぼろ貸家に住んでいましたが、今から約10年前にきっかけがあり、そこから退去することになりました。
その時きょうだいは全員それぞれ巣立ち、両親だけになっていました。
彼らをぼろ家から、なかば強制的にゴミを処分してもらい、住み替えることになったのです。
引っ越しの際は大量のゴミをトラックいっぱいに詰めてあらかた処分しました。
ボロ家は、私たちが退去した後、すぐに取り壊されて駐車場になりました。
なんともあっけない最期。
今となっては、私たちは知らないうちにモノに取りつかれていたのだなと感じます。
ぼろい家に住んでいることで、自然と生活レベルやモラルも下がり、モノをため込んでさらに負のオーラを増す、当時はまさに悪循環でした。
そこから抜け出し学んだ結果、今ではミニマリズムを軸とする生き方をするようになりました。
そのマインドになったからには、もうかつてのようなゴミ屋敷になることは天地がひっくり返ってもないと信じています。
ですが、私の出発点はここだったことを、ちゃんと覚えておこうと思います。