春はあけぼの。今もなお、心にしみることば
「春はあけぼの」で始まる清少納言の『枕草子』。およそ千年前に書かれたこのエッセイは、現代のわたしたちにも不思議と響く言葉が詰まっています。
ときおりページをめくるだけで、心が静かに落ち着くような気がするのです。
「つねよりことにきこゆるもの」という一節も好き。
いつもとちがってきこえるもの
「現代語訳 枕草子」大庭みな子
おなじなのに、いつもとちがってきこえるもの。
正月の車の音。
また、鳥の声。
明け方の咳。
おなじく明け方の音楽。
同じ音でも、不思議と聞こえ方がちがうときがある。そうそう、朝の音って、たしかにいつもと違って聞こえることがあるんです。
たったこれだけの言葉で「音」の本質をつく清少納言の感覚、書かれた1000年後にぴんときています。
明け方だけの、透明な世界
朝、まだ誰も起きていない時間。窓の外は薄明かりに包まれ、世界が少しずつ目を覚ましていく瞬間。静寂の中で、ふと気づくのは――意外にも、たくさんの「音」。
たとえば、パソコンのキーボードを打つカタカタという音。炊飯器がしゅーっと蒸気を出す音。コーヒーを飲んだ自分の「ごくり」という音。普段なら気にも留めないような、身体の動きや日常の音が、やけにくっきりはっきりと耳に届いてくるのです。
まるで、寝ているあいだに世界が一度まっさらに洗い流されて、すべてが新しくなったかのような感じ?
静けさの中にある音は、ただの「音」ではなく、もしかすると、「今ここに生きている感覚」そのものかもしれません。おおげさでしょうか。
いつもと同じ、だけどまったく同じじゃない
今日も昨日と変わらない朝。けれど、まったく同じ朝なんて一度もない。耳をすませば、小さな変化がある。五感を研ぎ澄ませば、きっと何かに気づける。
「今日も無事に目が覚めてよかった」
「身体がちゃんと動いてよかった」
そんな当たり前のことが、ありがたく思えるのも、静かな朝の魔法かもしれません。だから私は今日も、ありがとうの気持ちを胸に、すこし走ってこようと思います。
明け方は、人生でいちばん「生きている」ことを感じられる時間なのかもしれません。
おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫