自分でも思い出すのがいやになるくらい、思春期の頃は内弁慶でした。
要は、家族の前では威張っているのに外に出たとたん、臆病で意気地がなくて、なよなよしていたという10代の頃。
たしか中学校・高校までは、家族にたいしての一人称は「オレ」でした。
ところが、外に出ると、しっかり猫をかぶって「ぼく」だったのを思い出しました。
「思春期だったから」と言えばそれまでなのですが、なんとなく自分でも気持ち悪い居心地の悪さがあったのが、胸の奥に残っています。
あれはいったい、なんだったんだろう?
家族・きょうだいに対してはオラオラ言って、学校の友達にたいしてはぺこぺこして。
一時期不登校だった頃からか、そうやって自分の裏と表を使い分けて生きることを選んで、周りとのバランスをとっているつもりでした。
結局それがうまくいくこともなく。ずっと孤独だといじけつつ、やがて高校を卒業してしばらくすると、自分の中の膨らんだ「オラオラ」は急速にしぼみ、内弁慶だった「オレ」は、家族の前でも「ぼく」になっていったのです。
今思えば、あの暴れ散らかしていた自分が、10代のうちにすべての毒を吐き出せたのは良かったのかもしれません。
クラッシャーだった私に対して家族はめちゃくちゃ大変だったと思いますが、それでもいっしょにいてくれたことに、感謝。
そして、その期間があったからこそ、40代になった今は改めて思うのです。
これからは裏表のない人でありたい、と。
嘘・偽り・隠し事のない人生を送りたい、と。
これはある意味、ミニマルに生きるための具体策のひとつかもしれません。
裏表がなければ、人それぞれに対する態度のスイッチ切り替えの手間が省ける。
そもそも嘘・偽り・隠し事がなければ、さらに嘘を重ねることや取り繕う労力もかからない。
そんなふうに考えると、改めてただただまっとうに生きようと、そう思うのです。
悪いことはしない、ずるいことはしない、ごまかそうとしない。
ただそれだけで、心に平穏が持たされるということを、若い頃に経験で知ることができました。
だからこそ、相手が家族であっても職場の仲間であっても友人でもSNSでつながるみなさんとでも、まるっと同じワタシで接したいと思うのです。
ミステリアスな部分がないため、見る人によっては私という人間は面白くないかもしれません。
私をひっくり返したところで、そっちも表なのですから。
ですが、思春期の頃に裏と表と使い分けることの心労、面倒くささを痛感できた。今となってはその経験は無駄ではなかったようです。
今日もなにはなくとも、まっとうに生きていこう。
そして、心穏やかに生きていこう、と思うのです。
おしまい≡⊂( ^-^)⊃♫
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